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年の瀬恒例企画「カレンダー」2007年 12月編

と、いうことで、2007年12月のカレンダーです。

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よかったら、先に 1月ー11月編を見てやってください。





12月
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弟家族が帰国する日、僕と妻と娘はそれぞれ仕事や予定が入っていたから、それらを全部片付けた後で浜松へ向かった。
僕は日の出前からイベントの現場、妻は午後から VGTR でピアノ弾語りソロライブ、娘は期末テストの直前でちょっぴりナーバス(笑)

僕らが浜松へ到着した1時間後に弟たちが浜松駅に到着して全員が揃った。

みんながみんな、実はかなり疲れていたんだけど、思いが溢れ過ぎちゃってるのと、無事に揃えたことにお互いに安心できたのと、特に弟家族は、まだ大丈夫という安堵とで、なぜだかわからないけど、みんながみんな、実に普通な感じで夜を過ごした。
適当にお茶を飲んだり、適当にいろいろ食べたり、近況報告したり、写真を見せ合ったり、順番に風呂に入ったり、うたた寝したり、、、
それがかえってよかったんだって、僕は今はそう思っている。

翌朝は快晴。
みんなで庭に出て記念撮影をした。
なぜみんなが無理矢理集まって記念撮影をするのかを全員が理解していて、リート(飼い犬)もちゃんとわかっているようだった。

その日の午後、僕の妻子ははずせない用事があって先に名古屋へ戻った。
じいじ、じゃあ行くね、という娘に、親父は床についたまま、握りこぶしを作った片手をまっすぐ天井に向けて、声にならない声で「ファイト」と言って笑った。
娘はそれを胸に、今もいろんなことにチャレンジしている。

弟たちは土曜の夜に浜松に着いて、月曜の早朝にはまた出発しなくてはならなかった。
だから僕がもう1泊して、月曜の未明にセントレアへ送った。
夏にはみんなで長期帰国するから、それまでがんばれと言う弟に、親父は精一杯の笑顔を見せていた。

弟たちが無事に帰国してから5日の間、僕は仕事を終えた夜はずっと、その週末にアップルストアで開催するポッドキャストのライブイベントの準備にかかりきりになっていた。
友だちや国内外のDJやポッドキャスター、アーティストたちのグリーティング・メッセージを集めて、それをコラージュしてオリジナルのクリスマスソングを作ったり、いろんな国の Flickr の友だちに協力してもらってクリスマスカードを作ったり、当日出演してくれる3組のアーティストたちとのスケジューリングや機材関係の打ち合わせをしたり、今だから書くけど、とにかく何かに没頭している間は大丈夫だと思っていた。

昼間はクリスマスと正月イベントの準備をしながら、お袋や病院と毎日電話でやりとりしていて、お陰で風邪も寄せ付けず、すげえ元気だった(笑)

12月8日、アップルストアでの Pod Jam は、みんなで作ったクリスマスソング共々、大好評だった。無事に済んでホッとした。

けど、その翌日、日曜の夜に病院の担当医から電話があり、ナースセンター直結の個室へ移ったとのことだった。
とりあえず時差も無視してアメリカの弟へ電話して、妻に状況を説明して、急いでクルマを走らせた。

病院に到着して駐車場へ車を停めた後、急にどうしようかを迷い始めた。
すぐに病室へ駆けつけて、僕の報告を待っているみんなへ様子を知らせるべきだとは頭では理解しているのに、行ったら全部が終わってしまいそうな気がしたからだ。
疲れてたっていうのもあったと思う。

看護士に案内され、治療室に入ると、ベッドで眠る親父の横にお袋が立っていて、僕の顔を見るとすぐに、まだ大丈夫だよと言った。

僕は子どもの頃以来に親父の手を握った。
その柔らかさと暖かさは今も僕の手に残っている。
親父は、なんでオマエがここにいるんだ?っていう顔をして、おお、と返事をしたから、弟家族が送ってきたメールを携帯で見せながら(と言っても見えないだろうが)読んで聞かせた。

担当医と看護士が来て脈を取り、いろんな計器を確かめながら酸素の量だとか点滴の内容を調整してくれて、少し落ち着いたから、今は大丈夫だと言ってくれたから、お袋も少し安心できたようだし、僕はとにかく、取る物も取らずに来てしまったから、一旦名古屋へ戻る事にした。東名高速道路が事故で大渋滞。結局、家に着いたのは夜明けと同時くらいだった。

前の週の月曜から金曜までと同じような感じでその後の1週間を過ごした。
週末には、アップルストアでのワークショップイベントの開催が決まっていて、その準備もしていた。
なんでこんな時に、そんなに詰め込んだんだって言う人が1人もいないのをいいことに(笑)とにかくあれもこれも全部詰め込んでいた。

実は弟家族もクリスマス休暇に東海岸へ旅行する事をずいぶん前から計画していて、それをキャンセルするのはできるだけ避けたいと考えていた。親父本人もお袋も僕らもそれを止める事はしなかった。
他人が聞けばバカな話しだと思うかもしれないけど、僕があれこれ目一杯詰め込んでいたのと同じく、弟家族の、特に可愛くて仕方のない孫たちが楽しみにしている旅行を親父が行かせないわけはないと思っていたからだ。
つまり、実に勝手な考え方だと思うけど、みんなが絶対にまだ大丈夫だと思い込みたかったのだ。

12月15日、土曜日。

アップルストアでのワークショップが無事に終わり、ささやかな忘年会をやった。
11月からずっと酒を控えていた。
いつお袋や病院から呼ばれてもすぐに車で駆けつけられるようにだ。
でも、なんかこの日は飲んじゃっても大丈夫な気がしていた。
とても旨い酒だった。
お付き合い下さった皆さん、その節はどうもありがとうございました。

年の瀬恒例企画「カレンダー」2007年 12月編_c0030705_1431057.jpg12月16日、日曜日。

久々に寝坊した。そして、久々に1日中のんびりと過ごしていた。
その夜はサッカーのクラブワールドカップの3位決定戦と決勝があり、テレビ観戦して、そのことをこのブログにエントリーして、さあそろそろ風呂へ入ろうかという頃に、お袋から親父が危篤だという連絡が来た。

その日、お袋はいつものように病院の面会時間が終わる夜の8時まで病室で過ごし、親父に、じゃあ、また明日ね、と言って帰宅したそうだ。親父も、指でOKサインを作って、おお、と言ったそうだ。
病院からの連絡はその数時間後のことだった。

これも今だから書けるんだけど、僕は11月の中旬から、その時のための帰宅用スーツケースをパッキングしてあった。
急を知らせる連絡が来た時に、結局まごまごしていて間に合わなくなるのが嫌だったからだ。
そのケースを車に積んで、妻と名古屋の両親に状況を伝え、日曜日の朝を迎えたばかりのアメリカの弟の家へ電話をして家を出た。
歩いても行ける距離の幹線道路に出た頃に再びお袋から電話がきた。
親父の永眠を知らせる電話だった。
お袋が病院に駆けつけた時には、すでに息を引き取った後だったそうだ。
日付が変わって月曜日になってすぐのことだった。
間に合わなかったよ、とお袋は言ったけど、たぶん、親父はお袋が泣くのを見たくなかったんだと思う。
もし目の前で息を引き取ったら、お袋はその直前から号泣して、更にその場で泣き崩れていただろうから。

僕は家に引き返し、妻にそれを知らせ、ベッドに入ったばかりの娘を起こして3人で実家へ向かった。

葬儀を経験された方ならご存知だと思うけど、人が亡くなると一般的にはその夜が仮通夜で翌日が通夜、そして翌々日が告別式となるわけで、親父の場合は月曜になってすぐだったから、月曜の夜は日柄のこともあって仮通夜ではなく、火曜日が仮通夜で水曜が通夜、木曜が告別式という段取りになった。

ここから長い長い1週間が始まったのだった。

真夜中、実家にはお袋の兄弟、つまり僕らの叔父や叔母が来てくれて、葬儀を取り仕切ってくれる担当者と、祭壇の業者が諸々作業をしてくれていた。

僕らが到着するまでお袋の傍にいてくれて、葬儀屋や電話などの対応をしてくれていた叔父や叔母には一旦引き取ってもらい、僕ら3人とお袋の4人で、親父の傍で仮眠をとった。

12月17日、月曜日。

弟たちは帰国する為の航空券の手配に相当に手こずっていた。アメリカに於ける感謝祭とクリスマスシーズンの交通機関の予約状況は、日本のそれとは比較にならないくらいすごいからだ。
最悪、弟一人だけしか帰って来れないかもしれないという状況だった。

妻子は学校のことやら仕事のことやらあるから、一旦名古屋へ戻った。

葬儀のこと、親戚や近所や各所への連絡の事、いろんな細かい手続きのこと、それらをお袋と手分けして片付けて行った。

そもそも僕は長男なのだから、本来は僕がやって当然のことなんだけど、僕が結婚する時に、実家のことは全部弟に任せ、すべてを譲ることになっていたのに僕の仕事になったのは、弟が仕事でアメリカへ行ってしまっているから仕方のないことなんだけど、でも、彼らが不在の3年半と、この時の1週間は、僕にとっては、まさに神様がくれた罪滅ぼしと穴埋めのチャンスだったと思っていて、だから、葬儀の段取りをしていることも、僕の本業のノウハウと得手が最大に役に立ったってこともあって、まったく苦にならなかった。いや、それどころか、むしろ嬉しかった。

あっと言う間に1日が終わって、この日はまだ仮通夜でもないので夜には一息入れられた。
簡単な夕飯を済ませ一休みと言ってホットカーペットの上に横になったお袋がすぐに眠ってしまった。そのまま朝まで寝かせておいた。
あそこで睡眠がとれてほんとに助かったと、あとからお袋が言っていた。
親父はつくづく、ここしかないという日を選んでくれたんだなあと思った。
1日半の時間的余裕を残してくれたわけだから。

弟たちの航空券はまだ確保できず。

12月18日、火曜日。

妻子がもろもろ準備を整えて戻ってきてくれた。
葬儀屋と斎場、お寺、隣保の役員さんたちとの打ち合わせや段取り確認をしながら部屋の片付けなどを手分けしてやりつつ、僕は仕事もしていた。ノートブックPCとインターネット、携帯電話があればどこでも仕事が出来る時代を、この時は心からありがたいと思った。

仮通夜。

弟家族の帰国便のチケットが確保できた。

通常はデトロイトからセントレアの直行便を使うんだけど、それはどうにも手に入らず、結局、シカゴまで5時間かけて車で移動して、そこから成田という便になった。
機内では4人ばらばらの座席だった。
通夜の開始時間には間に合いそうもなかったけど、とにかくなんでもいいから席が確保できてみんなほっとした。

このエントリーのトップに貼った写真のカメラは親父が愛用してた Nikon F80 と Coolpix 5200。
とにかくスナップショットが好きだったから、こんな大掛かりなイベントならきっと撮りたいに違いないだろうってことで、枕元に置いてやった(笑)

年の瀬恒例企画「カレンダー」2007年 12月編_c0030705_13364291.jpg12月19日、水曜日。

まだ水曜日(笑)
祭壇や生花、籠盛り、花輪、、、たくさんの物が運び込まれ、片付けられ、たくさんの人が出入りして、実家はますます非日常な場になっていった。

通夜が始まった。
ほんとうにたくさんの人たちが会葬してくれて、読経が終わってからも延々と弔問客が続き、開始から2時間以上経ってもその列は途切れる事がなかった。
もうすぐ10時になろうとした頃に弟家族が到着した。
約3週間前に会って話しをしていた親父はもういない。
4人とも急に現実を突付けられて思いっきり泣いていたけど、延々と続く弔問の列のお陰で、どっぷりと哀しみの中に浸り切りにならずに済んだんだと思う。
あの夜に訪れてくれたすべての皆さんに感謝した。

一段落した11時頃に納棺の儀を執り行った。
親戚もみんな帰り、ようやく僕らは棺と祭壇の前で寛いだ。
時差と長旅からくるナチュラルハイ状態の甥と姪と僕の娘は、真夜中まで棺の前でずっとトランプをしたり楽しく遊んでいた。通夜は賑やかな方がよいものだから、僕らはその様子にかなり癒された。

この頃、アメリカは大寒波に見舞われ、弟たちの町もえらいことになっていたらしく、シカゴまでの道も空港もものすごい雪だったそうだ。
そんな中、長距離運転をして家族を運んで来た弟は泥のように眠っていた。
僕の喪主代行もここまで、翌日の告別式から出棺、そのあとの法要の段取りはすべて完璧に整えておいたから、あとは本当の喪主としてきちんと振る舞ってくれればいい。
だからとにかく今は寝とけと。

12月20日、木曜日。雲一つない快晴。

告別式には、前夜の通夜の時の弔問客と同じくらいの人が集まってくれた。
僕らは祭壇の前にずっといたからわからなかったけど、あとで聞いたら、家の前の道に車が延々とつながっていたらしい。
親父が亡くなってからこの日まで、リートは親戚みたいにお付き合いさせてもらっていて
、リートの姉妹も暮らしているお宅に預かってもらっていたんだけど、出棺の時に連れて来て下さった。
リートは何も言わず(吠えず)静かにおすわりをして見送ってくれた。
親父がリハビリを兼ねて毎日お袋と一緒にリートの散歩をしていたのを知っている近所の人たちはみんな、その姿を見て泣いてくれたそうだ。

斎場での儀式も終わり、自宅で初七日までの法要を済ませ、みんなが帰って行った。

年の瀬恒例企画「カレンダー」2007年 12月編_c0030705_14942100.jpg「実は」が多いけど、実は親父が亡くなった日の数時間後に、名古屋の母(妻の母)の妹の旦那さんも癌で亡くなったのだった。
葬儀のスケジュールはどちらもまったく同じだったから、名古屋の両親は仮通夜に浜松へ来て、通夜には三重県の桑名へ、そして告別式には再び浜松へと、それはそれで大変だったのだ。
娘は翌日は終業式だったから、名古屋の両親の車で妻と一緒に帰った。

あれこれ済んで、僕は気が抜けてしまった。


12月21日、金曜日。

朝、みんなで寺へお礼とその後のスケジュール確認に行って、これで葬儀が完了した。
その後は手分けしてお供えや花や篭盛り、香典や電報などを集約して、お返しだとかの細々したことを整理していたら1日終わってしまった。

弟たちは土曜の朝にセントレア発の便でデトロイトへ戻らなくてはならなかったから、また僕が名古屋へ帰りがてら空港へ送る事にしていた。
4人とお袋には仮眠をとらせて、僕は週末からのクリスマスイベントの準備をした。
寝たらアウトだったからだ(笑)

12月22日、土曜日、未明。

お袋とリートを残して僕らは出発した。
リートがいてくれてほんとうによかったと強く思った。

夜が明け切る前の空港は静まり返っていた。
チェックインをしている4人を待っている間、僕は立って眠っていた。
なんで倒れなかったのか今でもわからないが、実際にはすごく短い時間だったと思うんだけど、でも熟睡した気がした。

手続きを済ませた弟がやってきて言った。
デトロイトが豪雪で飛行機が飛べなくて、それが来ないと戻れないから待機だと。
まあ、もう慌てる事はないから、せっかくだからセントレアの店や展示なんかを楽しんでいけばってことで、僕は空港を後にした。

駐車場を出て高速道路への接続道路を走りながら、朝陽に光る海を見た時、涙が溢れ出て来てしまい、それが全然止まらなくなってしまい、幸いほとんど車も走ってない時間帯だったから、しばらく路肩に停めて涙が止まるのを待ったくらいやばかった。
あの時の感情を説明することは出来ない。初めての体験だった。

弟家族は結局チェックインから約10時間後の夕方の便でアメリカへ帰って行った。
空港に缶詰の間、VIP用の待ち合い室も使わせてもらえて、食事も無料だったそうだから、それはそれで貴重な体験ができてよかったと思えばいい。

そして、彼らが到着したデトロイトの空港は、直前までの豪雪がまるで嘘だったような信じられないほどの快晴で、春のように暖かかったそうだ。
たびたび話題に出している僕の気象操作能力は親父から受け継いだものだったんだ(笑)

天候のこともそうだけど、親父は自分のスイッチをオフにするのを、まさにここしかないというタイミングを選んでくれたんだと思う。
もちろん、僕らの勝手な後付けの想像だけど。
最初に医師に言われた通りの11月下旬だったなら、僕は仕事もプライベートも、両方のイベントでたくさんの人に迷惑をかけることになっていただろうし、妻も然り、娘は期末テストが受けられなかったかもしれない。
弟たちは帰って来れなかったかもしれないし、あらゆる歯車が狂ってしまっていたかもしれない。
僕らだけではなく、親戚や業者や友人知人や、とにかく関係しているすべてのみんなにとって、最も都合のよいタイミングを選んだところがすごいと思う。
そりゃ、もっと長生きして欲しかったけど、どうせいつかは来る日なら、最良の日を選んでくれて、ほんとうによかったと思う。

翌日の天皇誕生日は妻の誕生日でもある。
僕はこの日からクリスマスまでの3日間、本業のイベントの本番だった。
もう勢いだけで乗り切って、この時も余分なことを考えられなかったのが結果的にはよかったんだと思う。
思ったよりすぐに社会復帰ができた(笑)
その代わり、それが済んだ26日の朝はまったく動けなかった(笑2)


もう1年前のことを今更という気もしたけど、ちょっと書いておこうと書き進めてきたら、ものすごい長い雑文になってしまった。
でも、ようやく一区切りつけられたように思う。
人に読ませるためではなく、僕のライフログとして書き残しておきたかった。

年の瀬恒例企画「カレンダー」2007年 12月編_c0030705_1483322.jpg親父の戒名は「華岳実参上座」。
実家が花に囲まれているのを知っている住職が、まず「華を付けたかった」と。
そして、体格も存在感も大きな山のようだったからと「山=岳」を。
実は親父の名前。実際には實と書くけど、仏教の教えの中に、思いを具現化したことを「実参」と表すそうで、こちらの字を使ってくださった。
親父を表現するにはこれ以上ないほどのすばらしい戒名だと思う。


僕ら家族は、2007年の1年間で親父とのお別れの準備をしてきた。
死を恐れたり避けたり、死という現実から逃げたりしないで、その日の為にあらゆることを少しずつ整え、不安があれば解消し、心の整理もしていきながら、できるだけ普段通りに、普通にできることを互いにやっていくだけなんだけど。
伝えられずに来た言葉も思いも出来るだけ表に出して、望む事があれば、それを叶え満たして行く。

この年の夏が来るまで、僕はそれを意識してはいなかったけど、「お別れの準備」というキーワードを得て以来、その言葉に対してずっとポジティブに向き合う事を意識していた。そのヒントをくれた友人には心から感謝したい。どうもありがとう。
それに気付けないままに別れを迎えてしまっていたなら、この1枚の写真はあり得なかった。
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2007年は僕の人生で、もっとも大きな意味を持つ1年だった。
大袈裟に言えば、この年の365日すべてを僕は忘れないだろう。


もしもここまで読んでくれた人がいたら、どうもありがとう。
読み返してないから変な文章かもしれないけど、ま、雑記ってことで斜めに読んどいてください。

え〜と、2008年版も年内にはアップしますが、そっちは普通に軽く仕上げます(笑)

(追記)2008年のカレンダー

by thin-p | 2008-12-27 02:17 | スナップ